求心点(国王)を抜き、民族と宗教の対
立
日本人の歴史教科書 日本を読み解く15の視座<8> ジャーナリスト 高山正之
植民地支配の要は愚民化政策
国鉄リニアモーターカー生みの親として知られる京谷好泰氏が昔、パキスタン国営鉄道の招きで技術指導に行った。この国では脱線事故が頻繁に起きていた。
彼はそんな一人に油まみれの部品をぽんと投げ渡した。白手袋を汚された高級技官は憮然とするが、京谷は上に立つ者が率先して技術を学ばねば事故は防げないと教えた。
おかげでパキスタンから脱線事故が嘘のように消え、氏への感謝を込めた顕彰碑が今もラホール操車場に建っている。
帰国を前に技官の一人が英植民地時代に鉄道で働いていた父の思い出を語った。
あるとき英国人が機関車を指してお前らには高度なメカを作る能力がないと言った。
発奮した父は仲間を語らい、設計図を引いて蒸気機関車の十分の一モデルを作り、英国人の目の前で走らせた。彼らは褒めるどころか冷たい目で父を見つめた。
間もなく父とその仲問は呼び出されて処刑された。
欧米のアジア植民地支配の要は愚民化政策だった。知恵は白人のもので植民地の民のものではなかった。
難しい話ではなく、ただ伝統と文化を重んじさせた。それが実は諸刃の剣だった。

日本の風景、絵馬(一月、明治神宮で)
宗教・言語の対立を利用
当時、インドはイスラム・ムガール帝国の支配下にあり、伝統のヒンズーは衰退気味だった。それを復興させた。それはイスラムとの宗教対立を深めた。英国はさらにイスラム系ベンガル人とヒンズー・ビハール人を同じ政治区分に据えて憎悪を深めさせたり、別の宗派シーク教徒を治安の要に据えたりして争いを誘った。
四億の民が宗教で分裂、対立して争っている限り、団結して宗主国に抵抗する事態は起きない。実際、チャーチルはこの宗教対立を「植民地インドを支えた最大の防壁だった」と自賛している。
ヒンズーの復活は同時にこの宗教が内包するカーストも甦らせた。李氏朝鮮は両班、中人、常人、奴碑の四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いたことを考えれば一口に一三〇といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くない。
同じように地方言語も尊重させた結果、今の紙幣に一六種の言葉が書かれているようにインドは共通する母国語を持つ機会を完全に失ってしまった。
共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になる。宗教と言語。この二つの分断の結果、英国はたった二千人の文官(ICS)だけで四億インドを支配できた。
オランダが三世紀半支配したインドネシアも共通語を持たなかった。趣旨は同じだ。
では共通語化は難しいのか。四国ほどの旧ポルトガル領東ティモールも七〇万島民に共通語がなかったという新聞報道があって、いかにも困難が伴うように思われる。
しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させた。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは「反抗を知らなかった民」(英史家ルイス・アレン「日本軍が銃を置いた日」)が戦後、帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜いた事実によって見事に証明されている。
英国はインドに次いでビルマも支配した。その手際は植民地支配の集大成といわれる。ビルマは単一宗教単一民族の国だったが、英国はまず国王ティボーをインドに流して国民の求心点を抜いた。
次にインド人、華僑を送り込み、モン、カチンなど山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えた。
英国は紙も統制した。紙がないと教育もできない、意思伝達も難しい。愚民化にここまで熱意を燃やせることに驚かされる。

学校より刑務所が多いフランス植民地
フランスの仏領インドシナ支配もビルマ式に傲っている。まず咸宜帝(かんぎてい)をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次に華僑を大量に入れて代理支配させた。
もともと英国の阿片貿易を羨んでいたからすぐ阿片専売公社レジ・オピオムを設立。後にハーグ条約で阿片売買が禁止されたが、仏印は除外して販売を続けた。
仏印にはホンゲイの良質炭があった。バンメトットコーヒーの強制栽培も収益を上げたが、最大の収入源は徴税だった。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく隈りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きだった。そのために「学校の数より多くの刑務所が建てられた」と仏女性記者A・ビオリスの報告書にある。
彼女はその阿漕(あこぎ)さの象徴に「ニョクマム(魚醤・ぎょしょう)のビン法」を挙げる。魚醤にはすでに塩税などがかけられていたが、貯蔵には「衛生的な仏製蓋つきのビンの使用」を義務化し、ビンは法外な値で販売された。
戦後、ドゴールは「栄光のフランスの復活のため」に仏印の継続領有を主張し、ベトナムの独立戦争が始まるが、植民地とは際限ない収奪が可能の奴隷農場という彼らの意識がよく表われている。
ちなみにフランス人の手先になってベトナムを支配した華僑は南北ベトナムの統一の後にようやく追放された。いわゆるボート・ピープルがそれになる。
米国のフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦賂的政治的意図からだった。このとき米国は植民地化を嫌う民族派アギナルドの軍を徹底的に叩いた。
彼の故郷で抵抗の拠点だったバタンガスは焼き払われ数万人が餓死した。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされた。捕虜には水責め拷問が行われたと米上院公聴会での証言がある。
インドのセポイの反乱で英国は捕虜を束にして大砲の砲口の前に吊るして吹き飛ばして見せた。白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込んだ。
米国のフィリピン制圧で見せた残忍さも趣旨は同じ。恐怖で抑え込む植民地統治法の一つだ。

日本の風景、祭り(五月、秋葉原の神田祭)
日露戦争で覚醒したアジア
そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だった、とヤンゴン大のタツト・タン教授はいう。
同じセリフをホーチミン市でボー・グエン・ザップからじかに聞いた。「先の戦争はそのダメ押しだった」とベトナム戦争を戦った老将軍は言う。植民地の民は神を気取った白人が青ざめて逃げ惑うのを目撃した、と。
コーデル・ハルは「日本をアジア解放に殉じた戦士にさせてはならない」とルーズベルトに忠告した。ルーズベルトは頑張ったが、それでもアジアの民は恐れを克服して独立していった。
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・いつもながら勉強になりますね。さすがは高山正之氏です。特にビルマのケース。もともと単一民族・単一宗教だった国があっという間に多民族・多宗教に変貌したというくだり。加えて国王を流して国民の求心点を抜く。
・なんだか明日の日本を見る思いです。日本から皇室がなくなり、多民族多宗教国家になったら本当に終わりだと思います。この視点でみれば、皇室を貶め、移民を促進し、外国人参政権付与に熱心な勢力は、日本の許し難い敵でしょう。
・5月24日のエントリー「これが真実!大東亜戦争」では、「日本がアジアで残した功績」のフラッシュを紹介しましたが、この高山論文で、何故長期間欧米はアジアを支配出来たのかが理解できます。今は逆に日本が侵略されつつあります。非常に危険な状態ではないでしょか。


by suzunerin
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